ヴァーチューズそれは愛

最近思うことは、ヴァーチューズでどれだけ日々を修飾していくかということ。

わたしのヴァーチューズを3つあげるなら「愛、好奇心、感謝」なのだけれど、そのどれもが日常に溶け込んでいて空気みたいになっている。空気みたいになっているものを意識することが難しい。けれどヴァーチューズでもっと日々を修飾できたならきっと、もっとあたたかな世界が広がるのではないだろうかと考えている。
思春期に「オシャレは部屋着から」と思って、くたくたのパジャマを着るのをやめて可愛い部屋着を買ったことがある。今わたしがヴァーチューズに対して思うことも、なんだかそういうことな気がする。つまり日常生活におけるヴァーチューズのレベル上げをしたいのだ。
あの頃はオシャレになりたかったけれど、今は何になりたいのかわからない。けれどそれは必要なことのような気がしている。

いろんなヴァーチューズを知りたい気持ち。
全てのヴァーチューズは愛だと思ったことがあるが、実際は全ての愛がヴァーチューズなのかもしれない。その中心を表す言葉を持たないのかも知れない。ヴァーチューズはあまりにも細かい。そしてそのどれもが美しい。美しさは、ヴァーチューズは細かくわけていくことはできるけれど、わたしたちはその中心を知るすべを持たない。それは広大で深遠でひとりでは成り立ちようのないものだからだ。その果てを体現していけたら、自分をもっと信じていけそうな気がする。ここまで書いて気づいたけど、岡倉天心も似たようなことを言いたかったのではないだろうか。美しいものとともに生きたもののみが美しく死ねるのです。美しく死ねたらどういう気持だろう、そこはわたしの目標設定にないのだけれど、しあわせなのだろうか。しあわせなのだろうな。

気持ちに目標を持っていくことが最初は難しいと感じていた。自分の気持ちが正しいのかわからなかったからだ。けれど最近は自分の感覚を信じられるようになってきたおかげで、新しい世界に触れることは楽しいと思うようになってきた。
変な話だが、自分のしていることを疑うことで、逆に確信が持てるようになったと思う。理由は二つある。一つ目は、疑うには知識と感覚と言語化が必要なのだけれど、そもそも感覚を信じられなかった自分がいて、万象を疑う前に自分の感覚を疑っていたので万象の判断にたどり着けなかった。それが自分の感じているものが正しいと信じられるようになってきたので解消された。
二つ目は、疑いを持つこと自体が悪いことだと思っていたけれどそれは違って、疑いを持つからこそ次のステップにすすめることがわかった。疑いをもつことは未熟な証拠でそれは悪だと思っていた。できるだけ迷いたくなかった。白黒ハッキリつく世界か誰にも判断されない場所にいたかった。でもそんなものはなかった。どれだけ勉強しても完璧には届き得ない、だからロマンとして完璧を求めていきたい、その不完全な歪な世界でいつまでも未熟でありつづけるということ。きっとそれは難しい。つらいと思う。報われないと思う日もあると思う。けれど「自分は未熟」だと思っていること、目の前の患者さんが健康になるメソッドが他にもあるかもしれないと思っていることは、悪いことじゃないと思う。絶対に治してあげたいという気持ちは大事だけれど、治療にも手技にも絶対はない、そしてそれは悪ではないし善でもない。ただの真である。

こうしていままで信じられなかったものがわたしの味方になりました。
今はこの感覚で、わたしの体感覚で判断しても良いんだと知ったので、世界に触れることが楽しい。もっといろんな世界に触れてみたいなと思っている。その判断の基準に、ひとさじのヴァーチューズを添えながら。

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