台湾で雨過天晴を見た話

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それはガラスの向こうで、あわくうすい光を抱いていた。一番有名な無紋水仙盆ではなかったので、周りにひとが居ないのをいいことに、わたしはひとりその光と向かいあった。太陽を裸眼で見つめたときのような半ば暴力的な美しさが、わたしに雨過天晴という色を理解させた。やさしいけれどかなしい光をつつんだうすく照るような青はまさにその名の通り、雨が過ぎたあとのやわらかな空を思わせる。ひとがこれをほめたたえるのは、続く雨のなかにわずかな希望を探したことがあるからなのだろう。

透明な光をはらむ器を前に、大きく深呼吸をした。胸の奥から湧き上がるものを感じて目頭が熱くなった。

安寧の色が目の前でわずかに揺れた。

わたしは安寧の色を知ると同時に、本当の安寧なんてないことを知った。戦禍と戦禍の狭間で皇帝に愛された青い安寧。この世界が安寧だけで出来ていたならば、安寧という言葉は生まれなかった。ふいに「しあわせは途切れながらも続くのです」と歌う曲を思い出した。しあわせも途切れることでしか本当のしあわせには成りえない。だけどそれで良いのだと思った。途切れるからこそ、ひとは晴れ間を安寧に、しあわせに思う。

いつだって言葉は現実を正しく切り取れやしない。言葉にした時点でその現象に付随するものが失われてゆく。光は光。影は影。だけどその二つは本来同時に存在するものだ。光だけを見て影だけを見て、知った気になることを恐ろしく思う。幸せを幸せへと正しく昇華させる幸せではないものの存在を認識できるようになりたいと思った。そうすることでひとに優しくなれるような気がした。いまはまだ万物をこの剣に似たもので一辺倒に裂くことしかできなくても、裂き続けていくことでそれは叶うのだろうという予感がしていた。

もう一度深呼吸をして、美しい器が揺れていないことを確かめた。相も変わらず、周りにひとはいなかった。みんな綺麗な白菜を見に行ったのだろう。こんな器の前でぼーっとしているのはわたしくらいだ。目が覚めたような気がして、踵を返して部屋を出る。最後に一目、振り返ると視界の端には、今日に至るまですべての嵐をただ見てきた晴れ間の具現化が、変わらず憂いを帯びた輝きを放っていた。その輝きはすべてを否定もせず肯定もせず、ただ宇宙のようにわたしを見つめていた。わたしが宇宙の深淵を覗くと同時に、宇宙もわたしを覗いていたことに気づいた。はるかに見透かされたような気分だったが、悪くはなかった。




自分へのお土産に買ったミニ無紋水仙盆
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汝窯無紋水仙盆は北宋時代の青磁です。
中国では最高の青磁の色を「雨過天晴」と呼びます。
その名の通り雨が過ぎて空が晴れた色をしており、時代背景的にも王朝がころころと変わった動乱の中国史の中での一時の平穏(晴れ間)をあらわすとされています。
とてもとても、美しい器でした。


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