東京にカウンセリングを受けに行ったら因果がとれた話

こんばんは、ゆきじです。
昨年12月~2月まで、月に1回東京に個人セッションと呼ばれるカウンセリングのようなものを受けに行ってました。これがけっこうヤバかったので、何がヤバいのかを書いていこうと思います。ちなみにこの記事による利益相反はありませんし宗教的なものとも一切関係ありません。あやしいので信じても信じなくても良いです。でも全部事実です。

上にも書きましたが、セッションはカウンセリングのようなものです。感情に不調の原因がある場合、それを取り除いてくれます。心理的なロックを外して、前に進みやすいようにしてくれると言いかえることもできます。
わたしは特にこの時心理的なロックはなく、困っていることもなかったのですけれど、セッション自体に興味があったので行きたいな~行きたいな~とボヤいていたら、ひょんなことから行く機会が降ってきました。たいへんありがたいことです。
そういうわけで、さっそく予約を取り、航空券もとり、始発の広島空港行きのバスにドナドナされ3回ほど日帰り東京したわけです。

「なんにも悩みないんです」
「じゃあ、未来を創るというテーマでやりましょう」

先生は優しかったのです。悩みのない元気な患者に対して「なんで来たの?」とは言わずに、明るいテーマをつくってくれました。

一回目、二回目では「過去の因果」を取ってもらいました。こう書くしかないっていうか、因果って何って言われたら「知らず知らずのうちにわたしを生きにくくしていたもの」なんですけど、それは両親から受け継ぎ、きっと両親はその両親から受け継ぎ…という形で、先祖代々繋がってきていたであろうものでした。呪いとかじゃないですよ。いや最初は呪いだったのかもしれないけど。因果です。因果。
この因果はわたしでないと発生し得ない因果で、そしてわたしでないと解消できない因果でした。わたしで因果が解消できたであろうことには意味があって、その意味は今後より明確になっていくんじゃないかと思うのですが、ついでに母の因果も若干解消したようです。DNAの二重螺旋と同じで、繋がっていたものがどこかで途切れたら、その上も下も自然にほどけていくように、繋がってきた因果はほろほろとほどけていきました。どのくらいほどけたのかはわからないし、多分父のほうの因果も少しほどけているんでしょうけれど、この辺は実感としてはありません。これから実感していくのかもしれないし、実感しないままなのかもしれない。けれど、因果が取れたということだけは確かです。

セッションには「一瞬で人生変わりました!」みたいな即効性はないらしくて、それは体感として本当だと思うのですが、マジで因果が取れたなあ~って思うようになったのは最近です。突然わけのわからないことを質問するのですが、「ここで終わらせなければ」って思ったことありますか?何に対してそう思っていたのかわからないんですけど、わたしは中学生くらいのころからずっとそう確信していました。科学的な理由や遺伝的な理由があったわけではないのですが、漠然かつ盲信的に血を終わらせなければと思っていて、だから子供が絶対に欲しくなかった。でも因果が取れてからはそれを思うことが少なくなりました。因果って、気づいたらそれを受け継ぐか受け継がないか選べるそうです。わたしはもう受け継がないことを選べるから、子供欲しいなとは思わないけれど、もし神様が授けるのであれば産んじゃおっかなっていう感じになっています。

別にね、セッションの中で「あ~これが因果ですね。じゃあ取りましょう」っていって祈祷してもらったわけではないんですよ。因果が取れたことは結果であり、セッションの中では自分のトラウマをネガティブなイメージからポジティブなイメージに置き換えただけです。これは精神科とか心療内科とかでも(方法は違うと思いますが)やってることです。
トラウマは学級崩壊のことだったり、数学が出来なくて自殺しようと思ってたことだったんですけれど、そのトラウマを取ったら因果が取れたんです。この二つの相関関係はわかりません。先生もわたしも因果が取れると思ってセッションをやったわけじゃなく、結果的に勝手に因果が取れたんですよね。でもこういうものらしいです。セッションはどこに影響が出るかはわからないけれど、どこかに、(そしていずれすべてに、)影響があるものだそうです。

事前情報により過去に受けた傷、いわゆるトラウマを取り扱うと聞いていたので、何が出てくるか楽しみでした。だってトラウマって言われても「思いつくことないけど…」という感じだったのです。でも実際に行ってみて、過去の出来事がふたつ出てきて、これは別にトラウマだと思っていなかったし日常生活において思い出すことすらなかったことなんですけど、「乗り越えたと自分が思っている状態」って実は「傷自体は癒えていないけど無視してる状態、あるいは時間が経ちすぎて傷に慣れてしまっている状態」なのかもしれないなと思いました。傷だって思っていないものが癒されるって不思議な感覚ですが、これも広義の「予防医療」ですね。気づかないうちにゆっくりと真綿で首を絞められて窒息してしまうまえに、真綿をほどいていく作業に似ています。

3回目になるころにはすっかり元気になっていました。もともと元気だったんですけれど。3回目では因果から離れて、「受け取り上手になる」ためのセッションをしてもらいました。これに対する理解はまだ浅いのですが、セッションから一か月後くらいに「あ、欲しいものを欲しいと言って良いんだな」ということがストンと腑に落ちた瞬間がありました。欲しいということに対して罪悪感を持っていた自分が居て、「欲しいけど欲しいって言っちゃいけないな」と思い込んでいた部分があることに気づきました。欲しいってどう言えばいいのか、誰に言えばいいのか、いままで言ってこなかったのでまだよくわかっていないのですけれど、でももっと受け取っていっても、受け取れることを信じてもいいんじゃないかと思い始めました。ここから「受け取り力」が開花していくのか?自分を観察していきたいと思っています。

先にも書いたのですが、セッションって即効性があるわけではないし、時間も1回1時間半程度なので、セッションだけで変わった感じじゃないんですよね。セッションを受けた後の先輩や友達との会話だったり、読んだ本だったり、見た映画だったりに「いまの自分に必要なこと」や「セッションの理解を深めるもの」が散りばめられていて、視界と認知がぐぐーーっと押し広げられた感じです。日々自分に必要なことや理解を深めるものってそこらじゅうに落ちてると思うんですけれど、なかなか気づけない。でもセッションを受けたあとは、「あっここまで拾えるようになったんだ」と言う感じでした。アンテナが高くなっているというか、もともとアンテナが高すぎてへし折ってきた部分もあるんですけれど、賛美すべきは攻撃性でなく美しさだったっていうか、難しくしないように歩き出せるというか。すみません後半は趣味で書きました。でもそういうことです。

一言でまとめてみると、すべては繋がっていて何一つ関係ないものなんてない、一つにアクセスできれば他のどこへでも行ける、変わっていくということが今回のセッションで得た本質的な理解です。これは希望でもあり絶望でもあるなあと思います。セッションを受けたあと完全に調子が良かったかと言われたらそうでもなく、この絶望の側面にも触れてしまい、仕事において自分ではどうすればいいのかわからない症例にあたることが怖く介入を悩む日々が続き、1か月くらい食生活が乱れたり下顎前歯が傾いたりするくらいには落ち込んだりもしましたが、なんやかんや筋トレやら音楽やら誰かから返ってくる優しさに救われ今は回復して落ち着いています。できないんじゃないかって不安になる時って、わからないからなんですよね。わかったらわかった分だけわからないことも増えていくんですけど、できることをできるだけやっていけばどうにかなることも多いのかなと思います。過小評価もしなければ過大評価もせずに言いますと、おかげさまで、教えてもらったからこそできることだってたくさんあるなと思うのです。

この螺旋の中で、世界に返していくことが必然であるような気がしているし、必ず善くあるように変わっていけたらいいなと思います。終わらせることではじまる、殺すことで産まれる、真綿で絞めてゆくことももしかしたら産まれるための(かなりドMな)手段なのかもしれないけれど、セッションは真綿で自分の首を絞めていた自分を泣きながらよく頑張ったねって赦すと言うよりは、首を絞めてる自分に向かって「そんなことよりもっと楽しいことせん?」って肩を叩く感じです。陶酔しないっていうか。因果が取れるって字面完全にあやしいんですけれど、この点ではとても健全なセッションだったように思います。

せっかくなので最後に語らせていただくんですけれど、わたしの夢は綺麗な海の見える場所に歯医者兼中庸カフェをつくって、そこで歯より上の概念も含めた健康についての発信をしていくことです。ユニット(歯医者に行ったときに寝かせられる椅子)の前、海なの。絶対座りたいな~。わたしは治療する側なのでユニットには座れないのですが、印象硬化待ちの間に海を見てほっと一息ついちゃうと思う。「院長は海で今晩のおかずを取ってるので、ご用の方は裏へお越しください」みたいな張り紙もたまにしちゃいます。綺麗な海の近くの物件とカフェのほうやってくださる方募集中です。

*今回セッションしてくださった上田正敏先生のブログはこちらです。(→ゴキゲンなセラピストでいこう!)ありがとうございました!
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