フェリーニ監督の「道」

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一言で言えば暗い白黒映画なんですけど、なんでこうもドキドキするのか。そもそも映画って嫌いなんですよ。絶対に言葉で説明してくれたほうがわかりやすいのに、わざと書かないじゃないですか。「気づけよ気づけよ~」ってバラまいてほっぽりだす。
でも、あえて描かないことで気づかせたほうがはるかに「知る」んですよね。最近「日日是好日」という森下典子さんの本を読んで、お茶にもそういう部分があるんだなあと気づかされました。もちろん小説にもそういう手法はあるんだけど、言葉だけじゃある程度匂わせないと伝わらないから、映画より読み解きやすいように感じています。でも映画ってきっともっと、勝手に深読みしていって良いものなんだよね。

この「道」という映画も、「日日是好日」の前書きに書いてあって知りました。見てみたらとんでもない。キタノブルーよろしく画面が美しく華やかでもない(そもそも白黒だし)、船が沈んだりするビッグイベントがあるわけでもない、ただただ「道」が続いているだけ…。

主人公はザンパノという、筋肉で鎖を引きちぎるだけの粗暴な大道芸人。そのザンパノに安く買いたたかれたのがジェルソミーナ。ジェルソミーナは頭が弱い設定だけど、見たところそんなに白痴な感じは受けなかった。多感でHSPっぽい感じ。大道芸の手伝いをすることは好きだけれど、ザンパノの態度に嫌気がさし逃亡を図る。ひとに流され着いた街で自分たちよりすごい大道芸をするイルに出会い、その後ザンパノに連れ戻されたジェルソミーナは、たまたまイルの所属するサーカス団で一緒に働くことになる。しかしザンパノとイルが喧嘩をし、二人はサーカス団を追い出される。サーカス団についていくか、イルについていくか、ザンパノと共に行くか悩んだジェルソミーナは結局ザンパノと一緒に再び旅をする道を選ぶ。後日イルを見つけたザンパノが、彼を殴り殺してしまう場面を目撃し、ジェルソミーナは気がふれてしまう。大道芸の手伝いができなくなった彼女が寝ている隙に、ザンパノはジェルソミーナを置き去りにする。数年後、新たなサーカス団に所属するザンパノが流れ着いた街で、ジェルソミーナがよく歌っていた歌を聴く。歌っていた女に問うと、ジェルソミーナは数年前までこの街に居たらしいが、死んだとのことだった。その夜、ザンパノは海でひとり慟哭する。

ジェルソミーナの優しさや純粋さを受け取れなかったザンパノ、愛し愛された経験のない粗暴な男、だけど彼の器にもひとつひとつ水が溜まり、ある日それが決壊し、見えるようになるものがある。見えなかった時には気づけなかった他人のこころや自分のこころまでをも初めて理解し、後悔とともに畏怖とか衝撃とか感動や絶望に慟哭する。
見えない時に言葉で言ってもダメなんですよね。受け取れるこころがないと意味がないっていうこともあるし、きちんと理解出来ないんです。経験してみて、自分の目で気づいて、自分の感覚で感じてみて初めて、「知る」ことがある。人生ってそういうことがあるし、映画もきっと人生に似ているんだなあと思いました。「気づけよ気づけよ~」とばらまかれてほっぽり出された世界で、きっとみんな遅かれ早かれ伏線を回収していくのでしょうね。

孤独な道が、どこかで交わりあいながら続いていく。それは辛い決断をした道だったり、流されてきた道だったり、道なき道だったりするでしょう。共に歩んだ道、歩めなかった道、分岐点で右を選んだことを後悔することだってある。けれど、道はただ続いていく。それは残酷なことだけれど、その道に転がっている石ころだって何かの役に立つ。無駄だと思うもの、無意味だと思って見逃していたものが意味を持つ日が来る。その時、わたしたちはきっとザンパノと同じように慟哭します。

わたしはこの経験を「人生の解像度が上がる」と表現しています。粗い目をするこころに細やかな愛が降ってきても、ふるい落とされてしまうんですよね。でもいろんな経験を重ねるうちに、目が細かくなってきて、そのうち小さな愛が拾えるようになる。その愛が拾えた瞬間、解像度が上がった瞬間と言うものがきっと誰にでもあって、その時にひとはそうすることでしか、無情に続く道の次への一歩を踏み出せないのだと思います。夜の海で慟哭するザンパノ。彼の前には確かに「道」が続いています。

この映画を知ったエッセイはこちら。なぜか前書きで泣く。最近映画にもなりました。映画でも泣いた。
 

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